コンゴーニャス

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コンゴーニャスないしコンゴーニャス・ド・カンポ(Congonhas do Campo)は、ブラジルのミナス・ジェライス州にある歴史的な町である。ミナス・ジェライス州の州都ベロ・オリゾンテ(Belo Horizonte)からは南に90 km のところにある。人口は約5万人である。
この町は、ボン・ジェズス・デ・マトジーニョス聖堂というバシリカ式教会堂と、それに関連する彫刻群で知られている。この聖堂は18世紀のポルトガル人の金鉱採掘師フェリシアーノ・メンデスの依頼で建てられたものである。この聖堂の特筆すべき主要な彫刻群は、「ブラジルのミケランジェロ」の異名を取った世界屈指のバロック様式の芸術家アレイジャディーニョの手になるものである。聖堂のファサード前の石段には、石鹸石に彫られた旧約聖書の預言者たちの像が12体並んでおり、これはアレイジャディーニョの最高傑作の一つに数えられている。

傑出した芸術的価値を持つ聖堂とその周りは、1985年に「ボン・ジェズス・ド・コンゴーニャスの聖域」(英語登録名の訳)ないし「コンゴーニャスにおけるボン・ジェズスの聖域」(仏語登録名の訳)の名で、ユネスコの世界遺産に登録された。

サルヴァドール大聖堂

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ブラジル・サルヴァドール市のカトリックの大聖堂。大司教座が置かれている。

ポルトガル領ブラジル初の司教座として、1551年にサルヴァドールが選ばれた。1549年にポルトガル貴族トメ・デ・スーザによって町が創設されたばかりであった。1552年、初代司教ペロ・フェルナンデス・サルディーニャが就任。この頃から市中心部に大聖堂の建設が始まった。

1676年、サルヴァドールは大司教座に昇格した。1758年より後に、イエズス会が本国ポルトガル及び植民地から追放され、かつてのサルヴァドールのイエズス会派教会は市の大聖堂に昇格した。以前の大聖堂の建物は、1933年に廃されている。その土台の概要は、市内の大聖堂広場の歩道に見ることができる。

サン・ミゲル・ダス・ミソンイス

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サン・ミゲル・ダス・ミソンイス (São Miguel das Missões) は、ブラジル・リオグランデ・ド・スル州北西部の小さな町サン・ミゲル・ダス・ミソンイス市にある、イエズス会伝道所跡。1983年に「サン・ミゲル・ダス・ミソンイス遺跡」の名で、ユネスコの世界遺産に登録された(翌年に世界遺産「グアラニーのイエズス会伝道所群」に組み込まれた)。

南米に多くあるイエズス会伝道所の一つである。イエズス会は、グアラニー族をキリスト教化することや、彼らをスペインやポルトガルの奴隷商人たちから保護する目的で、1735年から1745年にこの伝道所を建設した。しかし、イエズス会の努力にもかかわらず、奴隷商人は跋扈し、1767年にカルロス3世が出したアメリカ大陸からのイエズス会退去令の後には、伝道所は廃れてしまった。

グアラニーのイエズス会伝道所群

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「グアラニーのイエズス会伝道所群」は、ブラジルとアルゼンチンにまたがるユネスコの世界遺産登録物件。

17世紀初頭にグアラニー族への伝道を開始したイエズス会は、グアラニーのキリスト教化を進めるための拠点として、いくつもの伝道所(伝道用の集落)を築いた。これは、同時に平和な理想郷の形成も企図したものであって、プランテーションなどでの強制労働や奴隷狩りから逃れた先住民たちも匿った。

グアラニー族が住む現ブラジル南部、アルゼンチン北部、パラグアイ南部などには、いくつもの伝道所が築かれ、共同体での生活が営まれていた。しかし、1767年にスペイン王カルロス3世が発した、アメリカ大陸からのイエズス会追放令によって、伝道所の共同体生活は崩壊した。

オリンダ

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オリンダは、ブラジル・ペルナンブーコ州にある都市で、大西洋に面している。州都レシフェの北に位置している。人口は、2005年現在で、約37.7万人。オリンダは、ブラジル国内の中で、最も保存状態のよいコロニアル風の建築物が残されている。

町の名前の由来は、ポルトガル語で"Ó, linda!"(日本語では、"なんと、美しい!"を意味する)である。1982年にUNESCOの世界遺産に「オリンダ歴史地区」として登録された。

もともとブラジルの大西洋北東岸地域には、数千年来、様々な土着の民族が住んでいたとされる。Caetés族や トゥピ人といった土着の民族の住居のあとが現在のオリンダの丘に残っており、この両民族の間では、頻繁に戦争が起こったとされる。

最初に、オリンダに到達したとされるヨーロッパ人は、フランス人の商人だとされるが、後に、フランスのライヴァルであるポルトガル人が1537年に、都市の建設を開始した。砂糖産業を中心にオリンダは反映したが、レシフェを建設したオランダ人によって、一旦は破壊された。

1654年ごろ、ポルトガルの手により、再度、オランダからオリンダを奪取すると、オリンダの町は、ポルトガル風の建築物が建設されるようになり、蘇った。